夜景

東京出張では、できるだけ大浴場つきのホテルを選ぶ。お気に入りは屋上に露天風呂があるところで、そこで景色を見ながらお風呂に入り、ゆっくり休んで眠るのがいつもの流れ。
この日はいくつかの仕事を部屋で片付けてからコンサートホールへいく予定があった。
音楽を体感し、夜中遅くに部屋へ戻った。夜の1時前だったかと思う。
頭の中でコンサートを振り返りながら大浴場へ向かった。

遅い時間だから貸し切りだろうかと想像していたら、少年がシャワーを浴びていた。私に気づくと、さっと振り向いて顔を確認し、またもとに戻った。こんな遅い時間に子ども? と一瞬不思議に思ったが、そういうこともあるだろうと言い聞かせ、私は体を洗った。
頭を洗っている間に隣に少年がいた場所に大柄な男性が現れた。お父さんかな。

内風呂もいいけれど、やはり露天風呂だと思い、体を洗って露天へ。
外に出ると、高層ビルの夜の風が心地よい。副都心の方角に広がる街の光、その四隅で飛行機がぶつからないように赤く光る航空障害灯。ゆっくりと点滅する光を眺めた。景色を見ながら、先ほどのコンサートで聴いた曲について思いを巡らせる。よく知っている曲が、作曲者自身がよく演奏するアレンジとは異なり、別の演奏者たちによって速めに演奏されていた。人工知能を使った映像も織り交ぜられており、興味深かった。もし自分が作る側なら、もっとゆっくり味わい深く聴かせる響きにしただろうか。いや、そう簡単にはいかないだろうか――赤い光はゆっくりと点滅する。
湯から上がり、身支度を整えて休憩できるフロアへ。ソファが並ぶスペースからは、さっきの副都心とは真反対の景色が見える。こちらの眺めは少しおとなしい。
先ほどの少年が静かに座っていた。

私は少年の背中を見るように、少し離れたソファに腰を下ろした。景色はさっきよりも緩やかに見える。再び音楽へ思考が戻る。タルコフスキーが静的な映像と水の音やピンポイントで重厚な音楽を重ねて名作を生んだこと。いまは都市の変化も、AIの画像や動画生成も、頭の回転どころか電気信号みたいな速度で加速している。それでも、離れて眺めると不思議と緩やかだ。光そのものは光速で目に届くはずなのに、風景は穏やかに呼吸している。近くで見ると速いものが、距離を取るとゆっくりに見える。生きる時間が長くなれば、時は緩やかに感じるのだろうか。けれど、その内側では、細かな刻みが光速に近い変化で起き続けているのかもしれない。そんなことを思いながら静かに過ごす。
少年は何を思っているのだろうと想像した。
少年は携帯電話も触らず、ただ点滅する夜の景色を見つめている。彼が見ていたおかげで、私もここに座って、何も求めずにこの景色を受け入れようと思った。そこで女性風呂の暖簾がパッと開き、一人の女性が髪も乾かさず慌てて出てくる。二人は小声でやり取りをする。そうか、彼はお母さんを待っていたのだ。さっき見た大柄な男性はそこにはおらず、どうやら無関係だったようだ。少年は一人で入浴していたのだ。私が入った時に慌てて振り向いたのは、驚いたのかもしれない。少年は小学生か中学入りたてくらいに見えたが、背丈よりも佇まいに落ち着きを感じた。

この温泉には無料のアイスがある。私がお風呂から上がった時、アイスボックスには1本だけ残っていた。1本だけだから私は遠慮したが、少年が食べた様子もない。私とほぼ同じタイミングで出てきたため、すでに食べたようには見えなかった。
母親は部屋に戻れるよ」と声をかける。鍵を渡してあるかもしれない。少年は「うーん」と顔を横に振る。「アイス食べる? 取ってきてあげようか?」と言われ、少年は少し考えて「ううん、いい」と答える。母親は「じゃあもう少し待っててね」と、まだ髪を乾かしていないまま暖簾の向こうへ戻っていく。自分の子どもが待っていることを感じて慌てて出てきたのだろう。少年は「うん」と短く返し、また景色に目をやる。母親が再び暖簾をくぐって風呂場に戻ろうかという時に一瞬だけ後ろを振り向いた。しかし、彼女はもう中に入ってしまったと分かると、すぐにさっと前を向いて夜景を眺めた。

私と少年の静かな時間が続く。深夜のホテルは人の出入りもなく、少し涼しい。昼までの暑さはどこへやら、妙な心地よさがあった。私は一度、少年に声をかけてアイスを勧めたくなったが、1本しかない。正直私にとってはどちらでもよかったのだが、ふと思う。彼はお母さんがあがったら、二人で分けようとしているのではないか。しかし1本しかない。周りも気になるが持って待つわけにもいかない。
外見はどう見ても子どもだが大人に見えてきた。
携帯も触らずに黙って景色を見て、人を待っている。

近くと遠く。その当事者間の中では一体何が起きているのか。観測すると、光が私のところに届く速さ、世界が変化する速さと遅さ、緩やかさが一つに繋がる感覚を覚えた。

やがて私は立ち上がり、部屋に戻るエレベーターがある方へ向かう。エレベーターの扉が閉まるか閉まらないかという時、髪を乾かし終えた母親が息子のところに戻り、はしゃぐ声が聞こえた。「まだ待ってたの」と母親の嬉しそうな声が聞こえる。「この少年、なかなか優しいやつだな」と心の中で思い、この一瞬の出来事を書き留めておこうと思った。

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