ぼくにとって音楽は"YMO"だ。
小学4年生の頃、家族と従姉妹の家族とで日帰りの車旅行へ出かけた帰り道。
車の中でRYDEENを聴いた。いっぱい遊んだ後の車の中で眠ってしまいそうな心地で、
ラジオで流れてきたこの曲との時間を、初めて聴いた時のことを今も覚えている。
「これのなんの曲?」と聞くと周りはすぐに詳細を教えてくれた。
母や叔母はNHK-FMで放送していたサウンドストリートのリスナーで叔母は矢野顕子さんやJAPANのファンだったのだ。
そこからぼくのYMOの音楽と共にある日々がはじまる。
ぼくは幼稚園にあがる前には絵を描いていた記憶がある。
赤塚不二夫のキャラクターを上手に描く父の影響もあり、バットマンが好きで、仮面ライダーが好きになった。
漫画はストーリーを考えながら描けなかった。将来は絵描きになるんだと思った。
音楽は図工の時間にベートーヴェンを描いてから運命を気に入ってよく聴いていた。
そこにYMOだ。叔母から借りたCDにはRYDEENが入っていた。
その日からずっと毎日RYDEENだけを夢中で聴いていた。
1回聴いて、2回目を聴いて、わかるまで聴きたいという気持ちで何回も何日も。
妹が文句を言い出す...母が注意しにくる...父が叱る といった感じだ。
子供用キーボードで弾いて真似事をしていると親は"光るキーボード"を買ってくれた。
そこにはデモソングでRYDEENが入っていた。
本棚がYMOのCDだらけになると、そこからミックステープを作って友達に貸して感想を聞く。
周りでは「山田くんはYMOの話ばかり」となっていたと思う。
同級生に終わりの会で"聞いたこともない謎の鼻歌を歌っている"と指摘されたこともある...
ぼくはYMOになりたかった。
中学の文化祭では友達とコピーバンドで舞台にも立ってしまった。
ピアノ教室の発表会では課題の曲がどうしても弾けなかったので東風を弾いた。
「いろんな音楽を聴かんとあかんで」 ある時に母や叔母にそう言われた。
そうか、こればかりじゃだめなんだ。 焦る気持ちが湧いた。
彼らの音楽を起点にルーツミュージックを掘っていく。本を読む。映画も見る。世界がどんどん広がった。
高校生のころ、将来はアートを、今のアートをという気持ちだった。
お金の都合をなんとかつけてPowerBookG5を買った。
それでデジタルアートを作りはじめる一方で、GarageBandで北欧エレクトロニカな楽曲を作り始めた。
作った音源はYahooブログで公開した。
写真、映像の勉強を独学ではじめていた。音楽も独学だった。
好きなように音楽を聴き、好きに音楽を作った。
2015年にSCIREを立ち上げる時、ぼくはちょっとだけアートや音楽を離れた。
自己表現なアート感覚と、YMOファンリスナーな気分とが同時に離れていった。
仕事をする以上、プロフェッショナルとしての意識をもったということだろうか。気持ちの問題として。
映像の仕事をするということに全力で取り組んだ。
「高橋幸宏は宇宙へ還った」と、先日、細野晴臣さんは自身のラジオ番組で言った。
幸宏さんたちが作ってくれた音楽。それは僕の身体や心になっている。幸宏さんは永遠になった。
同時にやはり死はあるのだなと痛感する。それをいくらか忘れて生きていても、まるでそれはデジタル的に寸断される。
大好きだったものもいつか終わる。死はやってくるのだ。
だからこそ今、復活の刻という言葉が浮かぶ。
光は、闇の中に映える。光は希望だ。
ぼくは一昨年の春に呼吸がしにくい症状から扁桃肥大の診断が出て切除する手術を受けた。
術後経過はかなり辛いものだったが、その冬には追い打ちをかけるように、右の顔面が神経麻痺を起こし動かせなくなってしまった。
一つ一つの症状の原因がどうというよりも、つまりだいぶ疲れていたようだ。
この一年はそれまでの生活を見直し、顔の麻痺は治療の甲斐もあってだいぶよくなっている。
封印していたフリーハンドに作る創作が動き出した。毎日いっぱい曲ができている。そして本当にぼくはYMOファンだったことを思い出した。
この宇宙に、ぼくの中に、大好きな人の存在も、音楽も共に居てくれるんだと心強く思って、想像の世界を広げて新しい作品を作っている。
復活の刻
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